友人のこと 5
私にとってRはもはやたった一人のフランス代表者ではなく、たくさんのフランス人のうちの一人で、たまたま日本語もしゃべれる人、という意味に変わってしまったからかもしれないのです。
そして彼女は「R」から「ランダ」になりました。
日本語で話していた時は丁寧な「ですます言葉」だったが、今は親しい間柄のフランス語であたりまえのように私たちは立ち話をしていました。
私にとってRはもはやたった一人のフランス代表者ではなく、たくさんのフランス人のうちの一人で、たまたま日本語もしゃべれる人、という意味に変わってしまったからかもしれないのです。
そして彼女は「R」から「ランダ」になりました。
日本語で話していた時は丁寧な「ですます言葉」だったが、今は親しい間柄のフランス語であたりまえのように私たちは立ち話をしていました。
2人の間に8年前、日本語でのコミュニケーションがあった、というか、それしかなかった、ということがまるで嘘のように、その夜私たちはごく普通にフランス語で話をした。
8年前はあれほど権威的で威張っているようにみえたランダが、その晩はむしろ少しはにかんで気弱な様子にみえたのが不思議だった。
話す言葉によってこうも人の印象とは変わってしまうものか、と驚きました。
いや、それは言葉のせいだけではないかもしれません。
私の方が変わった、つまり、8年前は1週間だけの訪問者だったのが、その後この国に住まいを持ち税金を払う生活者となり、その間、血の通ったスポークスマンたちに数え切れないほど会ってきた。
フランスという国に対する予備知識があまりなかったこともあり、彼女の解説するフランスは、そのまま私にとっての生身のフランスであったのです。
彼女はそう、私が出会った最初のスポークスマン、何も知らない私にフランスを紹介してくれる、血の通ったスポークスマンだった。
「こんばんは、ランダ」その夜はしかし、私の方から近づいていってフランス語で声をかけた。
一瞬、誰だったかしらという気まずさで目を細め、そして(相変わらず名前は思い出せないまま)「まあ、こんばんは」と彼女はフランス語で答えました。
Rは私にとってランダと呼ぶのでなく、R、それも日本語のカタカナ発音で呼ぶ方がピンとくる女です。
R、R、R。
前回彼女に会ったのは、私がパリに来たばかりの頃だったから少なくとも6年前。
そしてその前はそれに先立つこと2年日本から出張でパリに来ていた時に仕事を通じて初めて彼女に会ったのでした。
彼女は私が日本語を通して知り合った数少ないフランス人の一人だった。
フランスに住むなどという発想すらなかったあの頃、日本語が話せるRは短期出張中の私たちにとって、通訳であり案内役であり、そうしてフランスという未知の国への扉そのものでもあったのです。
フランスではこう、といわれればなるほどそうかと思い、フランス人ならこうする、といわれればそんなものか、と感心した。
友人Jの(二度目の)結婚を祝福するためパーティは、セーヌ川に面した建物の最上階にある広々としたアパートで開かれた。
私より15ほども年上の人とその夫が招いた客たちの大半は中年という年格好で、その中に見知った顔はほとんど見当たらなかったのです。
牧場の少女を思わせるような昔風の生成りのドレスに身を包み、ほんのりと顔を上気させている新婦におめでとうをいいにいった後、そんなわけで私は居間の壁に寄りかかり、何とはなしにその場にいる人々の様子に目をやっていました。
するとそこに彼女がいるではないか!
忘れもしない長い顔と、ちょっと魔法使いのようなわし鼻。
青白い顔も、禁欲的な黒いパンツスーッも、みんな昔のまんまだ。
連れはいないらしく、所在なげにぽつんと立ち尽くしています。
名前は何ていうのだったかしら・・・。
Rああ、何と懐かしい。
選挙運動の妨害とは・・・
演説会やパンフレット、ビラなどは、安寧秩序の維持に名をかりて、つぎつぎと中止させたり押収したりしました。
さらに選挙違反と称して、つぎからつぎへと候補者の検挙もおこなっています。
この違反件数をみると、投票日までに、民政党は四六九件一七〇一人の検挙者をだし、無産諸党は一四八件三〇〇一人の検挙となっていますが、政友会はわずか六三件一六四人にすぎなかった。
立候補者は民政党三四七人、無産諸党八六人にたいし政友会は三四二人だったのだから、いかに片手落ちの取締りがおこなわれたかがわかるだろうと思われます。
とくに無産党にたいする弾圧は猛烈で、労農党の「輝ける委員長」として立候補した大山郁夫のばあいなど、応援弁士には、県(香川県)外退去を命じ、運動員の検挙者は五百人以上にのぼったといわれます。
鈴木が未曽有の選挙干渉にのりだしたのも、無産政党にたいする警戒心ばかりでなく、こういうせっばつまった与党の状況にも原因があったといえるでしょう。
鈴木の選挙干渉はそれにしても猛烈でした。
選挙に先だって、かれはまず府県知事の大幅入換えをやり、政友会系の知事をおくりこんで態勢を固めました。
選挙運動がはじまると、野党や無産党の候補者や運動員には刑事の尾行をつけ、また選挙事務所には刑事を常時はりこませて、あらゆる選挙運動の妨害をさせた。
あの華奢な体のどこに一体それだけのエネルギーが、と驚くばかりであるが、ともかく彼は不幸な少年時代以来、実に精力的にたくましく自分の道を切り開き、女たちを渡り歩き、そして生涯、言葉のあらゆる意味において反逆児であり続けた。
彼にはいわゆる筋骨隆々的なマスキュリンさはかけらほどもないが、その代わりに「永遠の少年」が持つしなやかさとすばしっこさで、世界をデスクトップ仮想化し、女たちを征服したのでした。
つかんだと思ったら次の瞬間には両手の間からするりと抜け出ているようなつかみどころのなさがあるかと思えば、ひとたびその黒い瞳に捕まったら金縛りにあって二度と逃げられなくなりそうな、そういう不思議な吸引力もある男―昨年フランスで出版されたトリュフォーの分厚い伝記を読みながらそんな人物イメージを私は抱いたものでした。
最初の、そして唯一の結婚相手だったマドレーヌとは離婚後も変わらぬ友情を保ち続け、生涯にわたって最高の相談相手であり、食事友だちであり続けたというが、浮気中でも別れた後でも相手の女に決して憎まれない、という特殊な才能を確かに彼は備えていたようにみえます。
対外政策における森恪とならんで、対内政策で大きな役割を果たしたのは鈴木喜三郎でしょう。
鈴木は検事総長までつとめた司法官であり、その関係で平沼と親しかったことはまえにふれましたが、かれは清浦内閣で司法大臣をつとめたのち、政友会に入り、その領袖の一人となりました。
鈴木が大いに悪名をあげたのは、田中内閣の内務大臣となって三年二月の総選挙に辣腕をふるってからです。
当時、「腕の喜三郎」という暴力団の親分のような緯名がかれにつけられたのも、そのやり方があまりに悪どく、目に余るものがあったからです。
この選挙が最初の普選であったことはまえにふれましたが、政友会は当時少数党であったから、この選挙にはどうしても勝たなければならない立場にありました。
とくに相手の憲政会は、二年六月、政友本党と合して民政党になっており、ますます勢力をましていただけに、それは切実でした。
森はまえから陸軍の出先の連中と親密でしたが、さきの中国視察旅行のさい、陸軍省にいたすずきていいちいしはらかんじこうもとだいさく鈴木頁一と親しくなり、さらに鈴木を通じて石原莞爾や河本大作と親しくなりました。
鈴木・石原・河本といった連中は、当時佐官級の中堅将校でしたが、すでに陸軍の首脳部の「優柔不断」を批判し、日本の革新を考える急進的な派閥の中心人物になりつつありました。
河本が張作森暗殺の立役者であり、石原が満州事変の演出者であることはあとでみるとおりです。
森は早くからこういう軍部の右翼革新派と気脈を通じており、その線にそって田中をひきずったわけです。
田中外交が侵略的・ファッショ的な性格を強くもっていた背景に、こういう事情のあったことは見落としてはならないでしょう。
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